安曇野に在住する夫の叔母95歳、義理の叔母94歳。
私にとっても2人は忘れる事の出来ないお世話になった人。私の転勤族の父親、単身赴任は反対、夫婦は離れず高学年になった15歳で私は親に置いてきぼり、豪雪地の寄宿舎に入れられ、2歳違いの妹が高校生になった時、寄宿舎から呼び戻され、妹の為に安曇野での下宿生活となった。
其処は夫の母の実家、94歳になった義理の叔母が突然自身の3人の子供と私達2人の5人の子供の親の様な存在となった。当時4歳だった夫の従妹は今や市会議員、容姿は幼かった子供の頃のイメージのまま、一寸小柄だがたくましくなった。
95歳、亡き母のたった1人の妹の訪問は夜になった。
叔母は夫の母にそっくりそして母の他界した年齢になった。昔話は遠い記憶でも鮮明に残っている。消えていない記憶に笑顔になるが、
今の現状には錯誤が見られ、返事が返らない。
夫は東京生まれ東京育ちだが、私の下宿先は夫にとっては母親の実家。夫をじっと見て耳を傾ける叔母は夫を忘れていない。此の叔母の家に来ると、茶碗に山盛りの御飯を強いられ、おかわりしないと、何故だ?と恐怖の無理強いの話題に叔母は反応、大笑い、昔の事はハッキリ覚えていて、会話が弾むのだ。
側に居る私を不思議そうに見る顔には笑顔はなく緊張顔、最後迄思い出せなかった様子。
有明山の裾野、矢村から下宿先の新屋へ迎えに来てくれた三沢(生涯の友人)さんと1時間も歩いて有明駅から豊科駅迄、電車通学が始った。半世紀もの昔の面影はない昔の豊科駅だがロータリーの向こうに見える低い町並み、遠い山並みが懐かしい面影を残す。
豊科駅から学校迄の町に、大昔のままの先生の家を見つけた。陸上部の顧問だった先生のお宅、暫く停車したが生死も定かではなくーーー通り過ぎた。
高校の曲がり角は緑の樹木に囲まれた神社、懐かしい風景そのまま。神社やお寺でなかったら、この風景は留めていなかったのではと思う。
木造だった校舎、女子校だった学校は男女共学となった、今度は妹と来たいと思った。
安曇野では2泊、同じホテルを予約した、従業員の男性が私の後輩と聞き驚きだったが男女共学になった母校の話は予備知識として新情報として嬉しいニュースとなった。
翌日安曇野の避暑地へ、学者村には夫の設計した友人宅が有りよく足を運んだ、森林の中にあって手入れが行き届いている。
此処を通過すると親戚の家が点在する。
北安曇、松川村の夫の従兄の家に突然の訪問、泊まって行かないのかと言う従兄にあらためて伺う事を約束して、お米や野菜を戴いて筑北に向った日。
花いっぱいの庭、実りの田んぼが広がる。
従兄の家から車で1〜2分、新宿の朝日カルチャーセンターで夫の授業に通っていた私と、同じクラスだった友人が別荘を買い、安曇野で行き会った時には驚いてしまった。
今回も東京でなく、しばらくぶりで信州で逢う事が出来感動ーー世の中は狭し!!。
夫の従兄が彼女の事を、安曇野のインテリ!と呼んで親しくしている。
昔は中房川、今は穂高川、此の川の話題は興味深いものとなる。