天候不順、日本列島は災害に見回れて被害続出。今期の霰や彪、高温多湿不快な中、我家は友人知人、親戚の訃報続き。
夫が日本を発ってから間もなく1ヶ月に成ろうとしている、ネパールも雨期にあたりやっと、ヒマラヤのピークを望む風景が届く様になった。
後半、晴れて、山好きの夫にとっては英気を養うラッキーな現場と成りつつあるようだ。
期待は食生活の面で、自然調整が利いて、多少也ともメタボの体系が変化しての帰国である事を望んでいる。
週末、ネパールに居る夫や私の代わりに長男が長野市と安曇野市への2カ所を見舞った。
安曇野の夫の伯母は96歳、肺炎を脱して入院中、長男の信州行き最後の見舞いと成ったのは此処数ヶ月、最終機にあった義弟が昏睡状態に陥る寸前、わづかな面会、其の日の午後には息を引き取った。
それぞれの連れ合いの両親は皆他界、親との別れを体験し世代は私を長に妹弟が見送られる時期が巡ってきたのだ。私にとっては年上の義弟の死亡となる。77歳・喜寿を後4ヶ月目前の事だった。
偶然な事に私の母と同じ年齢で喜寿迄4〜5ヶ月での他界、母が77歳の喜寿を指折り数えて、当時1人残っていた母の妹とお祝いには生まれ故郷の佐久へ行く話をしていた。
過ぎた春3月 母が口ずさんでた歌。
人は見ずとも山桜、恵みのつゆに咲き満ちて、見る人なしに今日も暮れ、明日や散るらん たそがれに
2月ふくらみ始めた上野の桜を見物して文京区の病院に入院した−−−春3月、何を思ったのか、reikoお墓参りに行ってくる、如何しても行かなければならない、用事が済んだらぐ病院に戻るからと先生に頼み込んだ−−−4月再入院。
母77歳 喜寿迄残す所5ヶ月での他界。
知らせと共に長野に向かった。
早朝早い出発と成った弟はすでに松代のインターから、私達は初めて栃木から妙義山を目の前に横川パーキングへの到着時、連絡が入り、もう1人の弟は出棺の読経前に到着と慌ただしく大勢の人に見送られての葬儀と成った。ギザギザの妙義山がかすんでる、真っ黒な固まりに見えた。
1998年、長野冬季オリンピックの会場と成った「ビックハット」
現在では長野市の多目的スポーツアリーナ ビックハット・エムウエーブ
大峰高原、飯綱高原懐かしい地。
お別れの斎場へ向かうこんな日が来るとは思わなかった、霊柩車の後に続く車、高度が上がる山の奥へ奥へと向かう。