午前中1時間、86歳になるお年寄りとお話の時間をもちました。子供の頃のお話が聞きたかったのですが、ノーコメント。しばらくして、12〜3年前に亡くなったと言う旦那さんの話になりました「お父さん(旦那さん)はね、戦争に行ったの、ずうーー−−−と帰って来なくて、やっと帰ったの、子供と此の家で待ったの」「ここはお国の何百里−離れて遠き満州のーーーー」涙、涙で声が途切れました。
くも膜下出血で,少々言語障害が有るが,歌はスムースに歌える、86歳の今日迄の1番不安な時期が大きな思いでとなっている様子。「ここはおくにのーー」歌が、ずっと
繰り返されました。
私の最小年齢の思い出は,4歳の時の事です。長野県上田市の梅花幼稚園に3歳で入園、私が5歳になった時,3歳になった妹が入園してきて2人になりました。まだ妹が入園する前は,何回も園の庭の防空壕に先生に手を取られ、入った思い出が有ります。そのときは、決まって歌った歌が有りました「空襲警報、聞こえて来たら、今は僕たち小さいけれどなかずにーーーー?」行動しましょうと言った意味の歌だったと思いす。
はっきり覚えている歌がもう1つ「お昼がきました、嬉しいな,さあさあ皆でお弁当、お礼を言って、良くかんで,いただきましょうこぼさずに」忘れない歌です。お弁当は誰が作ったのか,何を食べたのかも思い出せないのに不思議。
私の最小年齢の思い出は、やはり戦争の頃だったのです。でも戦争は知りません。
空襲警報、防空壕、言葉の意味も状況も解らず危機感も無い,妹などは先生の誘導で皆がいなくなると、1人だけ部屋の真ん中に座って,おもちゃの独り占め、遊んでいました、無理矢理抱き上げたら,大変でした、決まって放尿して抵抗したからです。「お姉ちゃん、妹さんを連れて来てね」先生も手をやいたのでしょう、幼稚園で妹の誘導はいつも私でした。如何して嫌な時ばかり、タイミングよく、妹はおしっこをしたのか? それはかなり大きくなる迄、つづきました。
今思い出が語れる私ですが,今後は解りませんね、たった今の事を忘れる様になってしまって、はてな?と戻ったりしてーーーこわい現実。